藤田銅器の歴史
藤田家の履歴
History of Fujita family
高岡御鋳物師は藩政時代は始め金屋町に集団をなして居た
其の祖先は、河内国丹南郡狭山郷内日置大保村(現:大阪狭山市域)の住民金山昆古命の末裔で、
第八十一代安徳天皇の御代寿永三年狭山より出で越前に移る。
建久年中加賀国倶利伽羅の辺なる毛利の里に転じ更に越中砺波郡落合次で同郡西保に移住す
慶長十六年九月二十七日前田利長公の招きに依り御朱地を賜り高岡金屋に移す。
其の祖先は、河内国丹南郡狭山郷内日置大保村(現:大阪狭山市域)の住民金山昆古命の末裔で、
第八十一代安徳天皇の御代寿永三年狭山より出で越前に移る。
建久年中加賀国倶利伽羅の辺なる毛利の里に転じ更に越中砺波郡落合次で同郡西保に移住す
慶長十六年九月二十七日前田利長公の招きに依り御朱地を賜り高岡金屋に移す。
- 第四十ニ代文武天皇御代
- 大宝三年五月九日
禁裏御鋳物師に藤原性を賜る。 - 第七十六代近衛天皇御代
- 久寿二年御鋳物師聯盟に依って百八の燈籠献上の光栄に浴す。
- 第八十七代四条天皇御代
- 天福元年十一月勅命に依り菊御紋章下賜の光栄に浴す。
- 第百七代後陽成天皇御代
- 慶長十六年三月十六日横山山城守
酒井左衛門
尉連書に依って徳川家康より御鋳物師諸役御免並に高岡金屋に移住する事許可され直継美濃守より通達あり。 - 慶長十六年五月五日
- 後陽成天皇御書判並に勅及び天皇御璽の御印を賜ひ尚河内国丹南郡狭山郷日置庄に祖先より祀られたる、金山昆古命の御神姿をきざみ奉り前田利長公依り御朱印付にて下附さる。
- 第百二代明治天皇御代
- 慶応四年七月二十五日御鋳物師使用の菊紋付堤灯使用に対し許可あり。
- 大正三年時の皇太子殿下
- 御成婚奉祝の大博覧会が東京に開かれた時我が鋳造所出品の唐金製瓶掛が特に天覧の光栄に浴した。
- 昭和三十二年
- 十一月十六日長野の善光寺
智光上人に、唐金製小菊模様入瓶掛献上の光栄に浴す。 - 昭和三十四年四月十日
- 東京東本願寺
住職大谷光暢法王に唐金製御殿形御紋入瓶掛献上の光栄浴す。 - 爾来鋳物を伝承して今日に至る
善祐 略歴
HISTORY
藤田家は慶長の昔、今より四百余年前に、加賀藩主前田利長公が高岡に築城の際、
産業発展のために鋳物発祥地である河内の国舟南の鋳物師の流れをくむ七人の鋳物師頭の一人として
招聘された子孫でありまして、代々勅許御鋳物師として栄えてきました。
産業発展のために鋳物発祥地である河内の国舟南の鋳物師の流れをくむ七人の鋳物師頭の一人として
招聘された子孫でありまして、代々勅許御鋳物師として栄えてきました。
- 明治四十二年
- 富山県高岡市に生まれる
- 昭和三十一年
- 日本国際見本市会長赤間文三殿より支援と協力により、感謝状を受賞
- 昭和四十年
- 第六回全日本中小企業見本市において中小企業庁長官山本重信殿より優秀賞を受賞
- 昭和四十五年
- 三体不動明王像3尺5寸
砂原先生原型
くりから不動寺建立 - 昭和四十七年
- 第十三回全国輸出見本市において、中小企業庁長官荘清殿より優秀商品賞を受賞
- 昭和五十三年
- レリーフ、ベーブルース、ゲ―リックの像
横浜スタジアム - 昭和五十四年
- 梵鐘
2尺3寸
ブルガリや王国へ輸出 - 昭和六十二年
- 一遍上人像
27尺
2東京都 - 昭和六十三年
-
(銅)イーグル
4メートル
巨人軍依頼
アメリカ ドジャーズ球場 -
(銅)松尾芭蕉
4尺
石巻観光協会 - 平成元年
- (銅)モニュメント鮎
125×76×60
青森県 - 平成ニ年
-
(アルミ)花見塚古墳
3100×2000 -
(銅)阿弥陀如来
6尺
東京都 - 平成三年
- (銅)堅田源兵衛父子像
滋賀県堅田町
光徳寺 - (銅)支倉常長像
6尺3寸
仙台市石巻 - 平成五年
- (アルミ)モニュメント動物(ネッシー)
2メートル
横浜市 - (銅)七重の塔
9メートル
神奈川県箱根大天狗 - (銅)飛行機
北海一号
翼巾4メートル
北海道千歳空港 - 平成七年
- (銅)愛馬
8頭ユニコーン
神奈川県箱根 - (アルミ)釈迦如来座像9メートル
神奈川県箱根 - (銅)仁王像
一丈
神奈川県箱根 - 平成八年
- お母さん(割烹着)
5尺
兵庫県大屋町 - (純銀と銅製)
御灰切り
宮内庁納入 - 平成九年
- (アルミ)地図レリーフ
150×150
京都府 - 平成十二年
- (銅)ブロンズ像
犬の来た日
兵庫県大屋町 - 平成十三年
- パネルレリーフ
記念明延鉱山記念公園
兵庫県大屋町 - (銅)抗夫像
5尺
兵庫県大屋町